私の朝はせわしない。

 目覚めの良い朝を迎えると洗面台へ向かい、新聞を読みながら歩いている父と朝のあいさつを交わし、顔を洗い歯を磨き、トイレで用を足し食卓へ着くと、食卓には朝食が並べられており、本日のメニューは白いご飯に、温かい味噌汁、たくあんに納豆、それらが私の分、父の分、母の分、そして弟の……、いや、まった。よく見れば納豆が一人分足りない。私は最も近い位置の納豆、弟の目の前に置かれている納豆を電光石火の早業で奪い取った。遅れて弟から苦言が漏れる。

「ああっ、美羽姉ちゃん! その納豆オレのっ」

「うるさいなぁ、ご飯なんて食べたもの勝ちでしょう。あんたがトロイのがいけないの」

 そんなぁ、と弟は抗議するから私は言ってやった。

「朝ご飯は、戦争なのよ!」

 戦争ねぇ、と弟は冷ややかに答える。

「……普通そういうのって、受験とか、恋愛に使う言葉じゃねぇの?」

「うっるさいなぁ」

 私は日和見中立を決め込んだ父を横目に、弟と言葉の戦争を繰り広げつつ、朝ご飯を健全に済ませ、食後のリンゴを口に放り込み自室へ戻ると、本日の時間割を片手にカバンに物を詰めて、クシを片手に鏡に向かったところで、毎朝見るよく知った人物の顔を目にし、私はため息をついた。

「……おはよう、キツネちゃん」

 鏡に映る私の姿は、目が細くてなんだかキツネかネコのように見えた。決して容姿が劣っているとは思わないが、髪型は今流行りのロングには程遠く、肩にすら届かない程度のロングとショートの中間で、体の線は細くてきゃしゃだし、背筋は猫のように曲がっている。鏡に映る私に触れれば、鏡ごと壊れてしまいそうで、私は息を深く吸い込むと、ため息をついた。

 意味もなく朝一からへこむと、始業時間のことを思い出し、そそくさとクシを通し、ロングもどきの髪を自然になびかせると、最後に黒いカーディガンを羽織って、カバンを手にドアを開き、家族に一言、

「行ってきまぁす」

 と言い、私の一日は始まった。




 家を出て少し進むと並木道に差し掛かるのだが、やけに緑化運動が進んでいるこの界隈は小学生の通学ルートで、色とりどりのランドセルを背負ったかわいい小悪魔たちに占拠されている。道端にはおばあさんが交通整理用の棒を持っていて、小学生たちと言葉を交わしている。

「おはようございます」

「はい、おはよう。今日も元気だねぇ」

 小学生たちは安全を確認すると往来を横断していくので、私もそれに続いて道を渡ろうとすると、ばったり、おばあさんと目が合ったわけで、おなか一杯に朝の空気を詰め込み、

「おはようございます」

 と元気よく答えると、おばあさんは笑顔で、「はい、おはよう」と言ってくれるのだ。

 小学生たちと別れ、やたらと車の通りが多い割に狭いに道に出ると、同じ学校の制服を着た男の子が自転車に乗って私を追い抜いて行った。確か――

 自転車通学は禁止されている。けれど、この通りには図書館があり、図書館には駐輪場が設置されており、図書館と学校は近くにある上に、図書館には先生たちの監視の目もいきとどいていないとあり、図書館の駐輪場に自転車を止めて自転車通学をしている悪い子たちがいる。

 いま通り過ぎた多幡信和(たばた のぶかず)君がその一人だ。と思って多幡君のことをジロ見していたら目が合い、

「いよう、楠田(くすだ)」

 と右手であいさつをされた。私はなんだか肝を抜かれて、肩をすくませるとあいさつ代わりに頭をコクリと上下させた。犯行の現場を目撃された多幡君はカラッと笑うと、カバンを担いで堂々と学校へ向かっていった。

 悪い子。私は心の中で、再度つぶやいた。

 学校に着くと茂呂中学校と書かれた看板を通り過ぎ、上履きに履き替え、階段を上り三年B組の教室へ向かった。自分の席に着くとまずは時間割をカバンから取り出し、廊下にあるロッカーからいれっぱなしにしている教科書とノートを取出し、席について落ち着く。たいてい朝の会まで五分ほど時間が余るので、隣りに座っている友達の瀬間穂枝(せま ほずえ)とおしゃべりをして時間をつぶすことが多い。

 穂枝が私に話した。

「うちの姉貴がさぁ、犬がほしいぃって言ってるんだけどさ、あれは怪しいなぁ」

「怪しいって、何が? 犬がほしいっていうなら私もわかるなぁ。だって、犬ってさ、人懐っこしくて可愛いじゃない」

「違う違う、美羽は純情すぐる。……犬っていうのは、オ・ト・コのことだよぉ、オトコ」

「えぇーー」

 暇そうに私の横を通り抜けようとした多幡君が怪訝な顔をしてつぶやいた。

「女って怖えぇな、それ……」

「ちょっと、人の話を聞かないでよ」

 多幡君は聞きたくて聞いたわけじゃないと言い訳をしたが、謝る間もなくチャイムが鳴り、先生が入ってきたので会話はそこで打ち切られ、私は多幡君の背中を見送った。人の話を立ち聞きするなんて、悪い子だ。私は再三、心のうちで“悪い子”とつぶやいた。




 そんな日の帰り道、私と穂枝はいつものように一緒に帰り道をたどった。穂枝はカバンの中からバナナを取り出すと歩きながらおいしそうにほおばっていたが、私が記憶する限り、この女がバナナ以外のフルーツを口にしていることはなく、自然こんな疑問が口からこぼれた。

「バナナ好きなの?」

「あたしの命さっ!」

「そ、そうなんだ」

 素直に断言され、強談されたような気分になり、私の回答はしどろもどろになったが、穂枝は新しいバナナをむきながら小学生じみた設問を挙げた。

「バナナはおやつに入りますか!」

「はいらん」

 即答。が、穂枝はバナナを食べる顔を赤らめいけしゃあしゃあと切り返してきた。

「じゃあ、どこに挿れれば……」

「?」

 いつものことだが、意味が分からん。だが少し考えて、下ネタだということがわかると、

「ほぁちゃあー」

「ひでびしっ」

 私の空手チョップが穂枝を捉えた。この馬鹿女はあべしだかひでぶだか知らないが奇声を上げつつ反省したのか、まあそれはどうでもいいとして、と穂枝は話した。

「駅前にある喫茶店、あそこの裏メニューを知ったのさ」

「ほう」

「パーティ専用特大バナナパフェ! ものすごく、あたしの琴線に触れるんだけど、お財布の金銭にも危ういし、それになにより、あたしひとりじゃ胃袋の栓が抜けて逆流しそうで戦々恐々ものなのさ」

 というわけで、と穂枝は続ける。

「チームバナナパフェを結成しようと思うのさ。美羽もぜひ、その一員に!」

「えぇーー、なにそれぇ」

 そう言って私たちは青信号を確認すると道を渡ろうとした。が、角を曲がり車が、いや、ダンプカーがすごい勢いで走ってきて、横断歩道へ突っ込み、私たちを跳ね飛ばし――

「え」

「――美羽っ、危ないっっ!!」

 いや、間一髪、穂枝が私を抱いて飛びのいた。ダンプカーは私たちのギリギリ横を通り抜けて、走り去っていった。放心する私の肩をゆすり、穂枝は、

「生きてる? 怪我はない? 大丈夫?」

「……え? あ、あぁ、うん。大丈夫」

「本当? 本当に大丈夫なの、美羽。よかった、ほんと、死なないでよかった」

 そういって、穂枝は私の肩を抱いた。私たちは、お互いの無事を確認し合うと、再び家路についた。けれどこのあとあんなことになるなんて、私には知る由もなかった。




 不思議な夢を見た。

 夢の中で天使たちが話し合っている。天使たちの顔はどこか懐かしく、そして恐ろしかった。天使が告げた。

「記憶領域不全(メモリリーク)が発生した。問題のある実存(インスタンス)がいる」

「ガベージコレクションを要する」

「調査し、抹消すべし」

 誰を? そう思う間もなく、天使たちの目が一斉に私に浴びせられ――

 夜半、私は汗だくになって飛び起きた。怖かった、だからつぶやいた。

「怖い……夢、怖い夢。――まるで」

 まるで私が消されるんじゃないか、そんな気がして、

「汗だく……シャワー、浴びてこよう」

 真夜中に、私はシャワーを浴びた。そうすると現実感が戻ってきたのか、めったに夢など見ない私がめずらしく夢を見たと思えば悪夢だったとか、そんなことを考えているうちに平常心が戻ってきて、牛乳を飲んで髪を乾かせば、今度はぐっすりと眠ることができた。

 安眠こそ、健康の第一条件であり、私はそれを実行体現した。




 学校の授業がひと段落しお昼休みを告げるチャイムが鳴ると、私たちは気の合う仲間同士でお弁当を囲んだ。穂枝と私はお弁当をつつきながら話し込んだ。穂枝は言う。

「やっぱりねぇ、あたしが思うに、人間、食べ物をつついてる時が一番しあわせなのさぁ。それも、お母さんが作ってくれたのなら、なおさらだよ」

「だねぇ。でも、うちのお母さん、給食があれば楽なのにねって言ってるよ」

「それなら美羽、ユーがお弁当を作ればいいのに。実際、毎朝早起きしてお弁当作ってくれるお母さんのこと考えると、あたしだって、自分で作るかなとか、思うよ」

 へぇぇ、と私は息を吐き、聞いてみた。

「穂枝、自分でお弁当作ってるんだ」

「マ・サ・カ。このお弁当はうちの母親力作さっっ!」

 なんだそれは、という私のツッコミに穂枝は「あっははぁ」と笑った。穂枝は言う。

「あたしもユーもお母さんが大好きなのさ。ま、アンサーはアンイさぁ。子供なんて母親に依存してるものだし、それでいいってうちのマザーはマザマザと言っているよ」

 それに、と穂枝は語ろうとしたが、穂枝の口がパクパクと動く前に私の耳は穂枝の言葉を捕らえ「ユーは食事についてどう思ってるんだい」だと?

「そりゃあ……、生きる糧でしょう。違う?」

「へ?」

 と、穂枝は狐にでもつままれたような顔をした。こいつのこんな顔は初めて見たので、私はさっき聞こえた穂枝の言葉を口に出してみた。

「あたしは雑食主義だから肉も魚も食べるけど、あたしの胃袋を通じてみんな天国へ行っているから、ニクジキはよいのさ、ってなんだ。ニクジキって」

「ちょ、美羽ぅっ! ななな、なんで、あたしが考えてたあたしのユニークな言舌がダダ漏れなのさぁっ。マサカ、ユーはエスパー伊藤だったか」

「なんだそれは。穂枝がそう言ったんでしょう」

 と私は突っぱねたが、

「全然、言ってない言ってない言ってない」

 穂枝は言っていないと一点張りを通した。いったい、何が起きたというのだろうか、私はから揚げを口に運んだ。不意に、天使の声が聞こえた気がした。

“見つけた。記憶領域不全(メモリリーク)の原因はここにあったのか”

 不全(リーク)ってなんだろう。そもそも、天使の声が聞こえるとか、そんなわけがないわけで、穂枝の独り言が私にたまたま聞こえたのだろうと、ひとりで納得した。




 その日の帰り道。

「美羽」

「何?」

 穂枝は相変わらず意味不明なことを口走った。

「我々キュウドウ部としては、考えねばならぬことがある」

「弓道部? っていうと、アーチェリーとかの」

 そうではない、と穂枝は大声で否定する。口調まで変わって何があったのだろうか。

「求道部さっ! 道を求める部、それが求道部」

 いったい何の道を求めているのだろうか。わからないので聞いてみた。そんなもの決まっている、穂枝は答える。

「帰り道さぁっ!」

「はぁ」

 穂枝は語りだした。帰宅部は家路をたどることを旨とする。しかし我々求道部は家ではなく、道を求める。確かに最終的には家にたどり着くかもしれないが、重要なのはその最終帰着地点ではなく、いかなる道をたどるかという過程なのだ。つまり、

「ちょっとそこらのお店寄っていこうよ」

「穂枝、道草を食おうっていうんだね。それならそういえば……」

「道草ではないっ! 求道であるっっ」

 それになにより、と穂枝は語った。

「道草は、食べてみたけどおいしくなかった! でも、バナナパフェはおいしいっ! だから道草は食べるものじゃない。ちょっと喫茶店寄ってこうよ」

 それを道草を食うというのだ、という私のツッコミはむなしくも空回りした。




 あくる日。

 通学途中、図書館前を歩いていたら後ろから声をかけられた。

「いよう、楠田」

「多幡君」

 多幡君は自転車を堂々と止めると、私のほうへ歩いてきた。いや、学校へ向かう途中なのだから「私のほう」ではなく、「学校のほう」か。ともあれ言いそびれたことを思い出し、私はその言葉を口にした。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

「私は多幡君の秘密を知っている」

「あ? なんだそれ」

「君は自転車で登校している」

 多幡君は不審がる顔から苦笑いに転じると、カラッとしたいつもの笑顔で快活に答えた。

「足を鍛えるためさ。スプリンターとしては当然のことだね」

 詳しくは知らないが、多幡君は陸上部に所属しており、短距離走の選手なのだそうだ。それなら、トレーニングは欠かせないのだろうが、なら、

「なら走ってくればいいじゃない」

「いやいや、自転車をこぐのにもパワーを使うものだぜ。なんなら楠田も陸上部に顔を出してみるか?」

「卓球マニアとは違うからなぁ」

 と私は矛先を変えてせめて見た。卓球部の友達から聞いた話なのだが、多幡君は卓球部に入り浸っており、陸上部が休みの日は卓球部員かのごとく振る舞っているという。それどころか卓球部員として大会に参加したこともあるらしい。そのことを口にしてみたが、多幡君はケロリと答えた。

「オレはユーティリティプレイヤーだからなぁ。それにしてもさすがは楠田、求道部員なだけのことはある。オレなんかとは違うね」

「ちょっと、求道部員ってなに」

 そういいながら私たちは校門をくぐり、瀬間がそう言ってた、という多幡君の言葉に耳を貸しながら靴をはきかえ、

「本当に草を食うやつがいるんだな、驚きさ」

「私と穂枝を一緒にしないでよ」

 と言い合いながら二人で三年B組の教室へ入り、

「天ぷらにして食べたのか?」

「食べてません」

 と教室の角に陣取り、穂枝の常識はずれな行動や言動について当人が見当たらないことをいいことに、あんなことこんなことを言い合い、気が付けばチャイムが鳴った。

「またな」

「うん」

 そういって、私たちは席に着いた。気が付けば穂枝が私に視線を送っており、朝の会が終わって、

「感じる、天使がいる」

「?」

「いあ、なんでもない」

 そういって穂枝はニヤニヤした。




 穂枝は心霊者よろしく大げさな表情で、というわけで、と無茶難題を言った。

「夜の学校に突撃しよう」

「またか、この電波は」

 私は即答したが、穂枝は一向にひるまず、

「天使がいる、それも夜の学校に。私が仕入れた情報によると、卓球部の部室にいるはずなのさ。求道部員としては求道の使者たる天使を見過ごすわけにいかないですよ。というわけで」

 と、穂枝は多幡君を引っ張ってきた。多幡君曰く。

「で、卓球部の部室の鍵をよこせと? なんだそれ」

「なんということでしょう、美羽も多幡君も天使さまを信じていないだなんてっ、この罰当たりの鉢にあたって弾けてしまえ」

 意味が分からなくなるから韻を踏むな、多幡君も同様に思ったのか私と同義異音に、

「瀬間、頼むから日本語で話してくれ」

 と語り穂枝は、ぐふあ、と息を吐いたので調子に乗って私も追撃した。

「やっぱり穂枝は日本人じゃなかった。それどころか人間じゃなかった。この堕天使がっ!」

「ええぇっ、そんなことないですよ。私はただの人間で、に凡人さぁ」

「凡人か煮干しかわからないけれど、一般人なら夜の学校に侵入しようとか思わないよ」

 多幡君も私と同じように考えているはず、視線を送ると多幡君は腕を組んで考え事をして、しかしなぁ、と話し出した。

「不思議なことに、卓球部の備品がたまに勝手に動いてることがあるんだ。卓球部員同士で確認したけれど、誰も触っちゃいないらしいんだ。天使かどうかは知らんが、瀬間の言うように夜の卓球部室に何かいるのかもしれない」

「え」

 と、私は目を丸くした。多幡君は続ける。

「顧問の先生も不思議がっていてね、これは調べてみる価値があるかもしれないな。けどことは大事にしたくないからな。この三人かそこらで行くならなら、協力してやってもいいぞ」

「わっほい」

 と穂枝は歓喜を挙げた。私は避難しようと試みたが、すっかり行く気になった多幡君と瀬間の言葉攻めに負け、結局今夜図書館で集合しようということになった。

「なんでかなぁ」




 夜の図書館へ真っ先に着いたのは私で、約束の時間まで三十分はあり、たいそう待たされ集合時間の十分前になって、

「いよう」

 と多幡君が現れた。

「瀬間は?」

「まだ」

 あのバリ三の電波女が時間を守ったことなどなく、そのことについて多幡君にグチグチ言っていたところ、約束の時間から十分ほど経過し穂枝が現れた。

「おはよん」

 それを言うなら「ばわん」だと私は突っ込んだが、

「あたしは仮眠をとって今しがた起きたから、おはよんで正しいのさぁ」

「瀬間はやる気満々だな」

「あたぼうよっ。不思議あるところに瀬間穂枝ありさぁ」

 といって穂枝はケラケラと笑った。それじゃ行こうか、と誰ともなく私たち一行は学校へ向かった。案の定校門は閉まっていたので、裏手の通用門から門を乗り越えて学校へ侵入した。私は、夜の学校というものを初めて体験したが、なんというか、

「怖いものだね、真っ暗な学校っていうのも」

「だな」

 私たちは懐中電灯の明かりを頼りに、卓球部へ向かった。足音の一歩一歩が高鳴り、廊下に反響する。お化けなど怖くはなかったが、先生たちに見つかることを考えると恐ろしく、私たちは寄り添って恐る恐る進んだ。そして――

 最初に気が付いたのは多幡君だった。

「なにか、聞こえないか?」

「え」

 私たちは耳を澄ませる。すると、

「き、聞こえる……」

 リズミカルなカツンっカツンっという音が、確かに聞こえた。穂枝が小声を挙げた。

「真夜中の学校に、本当に、何かがいるですか」

「言い出しっぺはあんたでしょう。先頭切って歩きなさいよ」

「えぇぇっ」

 穂枝は涙目になったが、多幡君は、

「この音は……こっちだな」

 とすたすたと歩きだした。

「え、ちょっと」

 私たちは多幡君に続いて歩いた。そして歩きついた先は、卓球部の部室だった。なるほどねぇ、と多幡君は感心し、この音は、と私は平常心に戻り、多幡君は卓球部室のドアを音をたてないようにわずかに開いた。そこには――

 人影が、いた。穂枝が叫んだ。

「うわぁぁあ、ホントにいたぁっっ」

「だ、誰だっ」

 人影が大声を上げた。これはまずい、私たちは顔がばれる前に逃げた。なるほどね謎は解けた、と多幡君は笑っていた。

 翌日。

 学校へ行くと穂枝は数珠を手に念仏を唱えていた。

「南無南無、まさか、ホントにお化けがいたとか何事ですか」

「お化けって、天使じゃなかったの」

 美羽ゥっ、と穂枝は奇声をあげ、

「ユーも見たじゃない、卓球台のお化けを!」

「はいはい、見たね。あれはお化けだ」

 私が笑っていると、多幡君が来て本当のことを言った。

「あれは用務員のおじさんたちじゃないか。大方、夜番が暇で、卓球でもして暇つぶししてたんだろう。それに見た感じ、あの人たち上手だったぜ」

「は」

 と、穂枝は目を点にして呆けた。私と多幡君は、大いに笑った。




 それから数週間。

 通学途中、図書館の前を歩いていたらジャージ姿の多幡君が走っていた。手を振ってみたら向こうも手を振りかえして、息を切らしながら多幡君が私の前で止まったけれど、足踏みは止めなかった。

「今日は自転車じゃないんだ」

「朝練だ」

 そういえばここ数日、多幡君が自転車を止めるところを目撃していない。私は聞いてみた。

「大会が近いの?」

「ああ」

 本当はもう少し話したかったけれど、がんばっている多幡君を引き留めるのも、なんだか罪悪感があって、私が手を振ると多幡君は走り去っていった。

「がんばってるなぁ」

 悪い子ではない多幡君を、私は初めて見たような気がした。

 昼休み、お弁当を食べ終わって歯を磨いていたところ、多幡君とばったり会った。私は男の子同士がやるように、おーっすと声をかけたら、うぃーっすと声が返ってきた。

「朝練ご苦労。どう? 大会の選手には選ばれそうかな」

「選ばれるさ、怪我でもしない限り」

 多幡君が言うには、陸上部の短距離選手は多幡君と後輩、二人しかいないそうだ。どうせ自分は選ばれるのだと、多幡君は語った。

「けどな」

 と多幡君は続ける。ただ選ばれて大会でぼろ負けするわけにはいかない。だから走る、そう語った。なんだか多幡君がカッコよく見えた。だから、

「そうかぁ、がんばれよ」

「ああ」

 私たちはこぶしを軽くぶつけ合って、多幡君の前途を応援した。




 その日のこと。担任の先生から今後の進路相談を受けるように言われ、私は進路相談室へ赴いた。一通り話が終わって、

「ありがとうございました」

 そういい私は進路相談室を後にした。出ると、

「お、楠田じゃないか」

 多幡君に会った。

「えと、次は多幡君の番なの?」

「そういうこと。なんだ、その意外そうな顔」

「だって、雰囲気的に偏差値の高そうな学校への進路相談だったよ」

「ああ、だからオレも呼ばれたのか。楠田、お前オレのこと、馬鹿だと思ってるだろ」

 当然だ、私は首を縦に振った。しかし多幡君が志望している学校名を聞き、根乃上高校だと確認して私は驚愕の声を上げた。

「ええええっっ、かなり偏差値の高い高校じゃないっ。っていうか、私と同じ志望校だよ」

「お、マジか。楠田も意外と勉強してたんだな」

 そんな馬鹿なと口にした矢先、先生から次の生徒入りなさいとの催促が来て、

「じゃあな」

 と、多幡君は進路相談室へ消えていった。私は自分の胸を押さえて、そうか、多幡君と同じ学校へ行くのか――そんなことを思った。




 それから午後一番の授業で、私はついうっかり宿題を忘れ先生から怒られた。あうぅ、カッコ悪い私だ。しかもその先生は厳しく、補習ということで放課後まで残された。

「あー、終わった」

 と話しかけても穂枝は調子よく逃げたようで、私の発声はただの独り言に終わった。帰るか、そう思ったけれど、ジャージ姿の多幡君が私の頭をよぎり、せっかく放課後まで残ったんだ様子でも見てみるかと思った。

「どこだ……」

 多幡君は、グラウンドのどこにもいなかった。学校の周囲を走っているのかとも思ったが、陸上部員の大半はグラウンド内で運動に励んでおり、その可能性は著しく低かった。

 不意に、多幡君の言葉が聞こえた。「オレなんかにはできない、オレなんかが選ばれるわけがない、そんなことは許されない。それに……オレにはもう、走る理由がないんだ」私はぎょっとして、

「え」

 周囲を見渡したが、そこに多幡君はおらず、ならばあんなに細々とした声が聞こえてくるわけもないのだがなぜか私には多幡君の声が聞こえて、その声をたどっていくうちに卓球部の部室へたどり着いた。

 ノックもせずに扉を開く、そこに、多幡君はいた。一人きりだった。そして、

 多幡君は泣いていた――

「多幡君……」

「楠田か」

 涙をぬぐうと、カッコ悪いところ見られたなと言い、多幡君はつぶやいた。

「走ったって、仕方がないんだ。オレには、……追いつけなかった。いや、なんでもない」

 多幡君は黙した。けれど、私の耳は多幡君の心の声を聴きつけた。聞こえた、多幡君の悲しい過去が……。




 昔のこと。私の知らない女の子と多幡君が駅のベンチに座り寄り添いあっていた。

 二人は悲しそうに手を取り合っている。

 電車を待っていた。雪が降っている、落ちては消えていく雪を見つめながら、二人は白い息を吐き、つぶやきが聞こえた。

「もう、お別れなんだね……」

「ああ……」

 他に言葉はなく、冬の空気が時を刻み、北風と共に誰も到来を望まない電車が到着すると、女の子は目を伏せ乗車した。最後だろうに、二人の間に言葉はなくて、ただ、望まない別れをしのぶ表情が浮かんでいた。取り合った手を電車の扉が引き離すと、女の子を乗せ電車は走り去った。

 電車とともに女の子は遠くへ消え去っていき、

 多幡君は、

 走った――。

 走って、叫んで、電車を、女の子を追った。

 どこにも行かないでほしかった。

 ずっと側にいてほしかった。

 今ならまだ追いつける気がした。

 息を切らせて、風を切り、足がはち切れんばかりに走って、走って走って走って――

 けれど、多幡君は追いつけなかった。それっきり、二人が再開することはなかった。

“走ったって、仕方がないんだ。オレには、……追いつけなかった”

 その日から、多幡君は走ることをやめた。走る理由がなくなった。

 多幡君の心の声が、私には痛いほど聞こえた。




「多幡君……」

 大したことじゃない、多幡君は重い口を開いた。けれど別の言葉を語った。

「大会の短距離走選手の枠は、本当はひとつしかないんだ。オレと後輩、どちらかひとりしか、出られない。なら、後輩がでればいい。そう思って、オレは最初から放り出していた。けど」

 多幡君はむせた。

「あの後輩さ、怪我して大会に出られなくなったんだ」

 私は沈黙を返した。多幡君は続ける。

「怪我して、出られなくなった後輩の代わりに、オレなんかが走ることになったんだ。けど、オレなんじゃ、大会に出ても負ける。ぼろ負けだ。後輩に、あいつに合わせる顔がないよ」

「もう負けてる」

 私は、怒るように話した。

「もう負けてるよ、多幡君。誰かにじゃない、あんた自身に負けてるんだっ!」

「楠田……」

 多幡君は涙をぬぐった。そして、感謝してくれた。

「オレ、まだ走ってもいいのかな」

「走っていいよ。走る理由が、またできたじゃないの」

「走ってもいいのか。また、走れる。今度こそ、ゴールまで走り抜けるよな」

 多幡君は軽やかに立ち上がると、じゃまたな、そう言って走り去っていった。

 走ったって、仕方がない。多幡君には、……追いつけなかったのか。そして、大切な人を失ったんだ。でも、多幡君は再び、走り出そうとしている……。

 多幡君を見送り、私は、胸に手を当てた。私の胸は、

 ズキズキと、高鳴るのだった。




 多幡君は……。

 夜、布団の中でそんなことを考えていた。

 恋人がいて、彼女と離ればなれになって、それで、そのあとを走って追いかけた。けれど、追いつくことなんかできなかった。だから本当は走るのが大好きなのに、その日から走ることをやめた。かわりに卓球に夢中になった。これは、

 悲しい出来事だ。でも、カッコ悪い、カッコ悪い多幡君だ。

 でも、今は――

 怪我をした後輩の代わりに、もう一度走り出そうとしている。これは、

 カッコいい多幡君だ。今の彼だ。

 人のために頑張れるだなんて、一生懸命になれるだなんて、カッコいいな。素敵だな、あこがれるな。悪い子なんかじゃない。思いやりがあって、

 優しい男の子なんだ。

 そんなことを考えながら気が付いたら寝ていた。

 夢の中、声がささやく。

「僕らは天使。僕はジーシー」

「僕らは天使……。僕はスイープ……」

「僕らは二人でガベージコレクションの実行者」

「ガベージコレクションとは……、不全な実存(インスタンス)の回収者……」

 天使たちは意地悪に、はきはきと語った。

「僕らは君の守護天使ではないけれど、まあ、聞いてくれ。君は記憶領域不全(メモリリーク)を起こしている……気づいているよね? 聞こえるはずのない声が聞こえること、それが不全の証拠。規約に基づきガベージコレクションを発動し、抹消することになった。君は、あと数日の命だ」

「思い残すことのないようにしてね……」

「ま、結局は消え去るんだけど」

 気味の悪い一言をのこして、天使は去っていった。朝、私の目覚めは最悪だった。

「朝から、汗びっしょり……。シャワー、浴びてこよう……」

 天使の夢、前にも見たことがある、そんな気はするのだが夢の記憶などあいまいで覚えているわけもなく、また、どんな悪夢でも現実などではなく、髪を乾かして弟と朝ご飯戦争を勃発させた頃には、天使の夢など忘れてしまった。




 まるで世界が変わった。

 気が付けば頭の中は多幡君のことでいっぱいだった。

 それだけではない。友達が話かけてくる理由、それだってなんとなくではなくおしゃべりを楽しみたいからであり、友達同士のつながりを確認したいからであり、ひとりきりではないという確信を得るためなのだ。

 今の私には、多幡君が女子と話しているのを見るだけでも心の中で嵐が吹き荒ぶし、多幡君が私の視界から消えるだけでも世界の反対側へ行ってしまったのではないかと不安になる。

 これが、

 これが、恋なのか――

 私は大いに燃えていた。

 私は今、ここにいるのだという、そんな当たり前すぎることを初めて実感した。

 と同時に、私が思っているだけでは事態が進展することなどなく、進展させるためにも多幡君と話をしようと思うのだが、今の私にそんな度胸はなく、自然に事を進めようにもそんな展開はなく、段取りを考えればすでに自然な関係ではなくなりそうで、結局は天使に祈るという神頼みに走るのだった。

「天使さま、私の最後の願い聞いてください。多幡君と話したい。それも今、すぐに」

「わかったよ、君の“最後”の願い、しかと聞き届けた」

 と、意地悪な天使の声が聞こえた気がした。が、

「あ? 楠田、呼んだか」

「えっ、えぇっっ!?」

 私の小さな独り言、聞かれたか。恥ずかしいし、心の準備もできていないし、だけどそこに多幡君がいるわけで、こんな機会逃したら次の機会なんかないような気もするので、私は勇気を振り絞って、世間話をした。

「米中二大国の戦争が起きて、イギリスはぬくりにぬくって宇宙っぽかったけど、日本で文化を決めて、天帝で勝ったよ!」

「楠田、落ち着け。まず、意味が分からん」

 思わず自分が好きなゲームの話をしてしまった。私は必死に話題を探すも、あぁ、だの、うぅ、だの、えぇ、だのとあ行二語活用をするのが精いっぱいで、日本語を話すのもしどろもどろになったのだが、そのあたり、察しのよさそうな多幡君は、

「よくわからんが、わかった。今日は部活もないし、一緒に帰るか? そもそも、帰りの会なら終わってるし、みんな帰ってるぞ」

「え」

 と、よく見渡せば、すでにみな帰宅した後で、穂枝すらいなかった。嬉恥ずかし、私は多幡君と二人、連れ添って帰路に着いた。道すがら多幡君は言う。

「タイムがグングンよくなってる。楠田のおかげだな、ありがとうよ」

「そんなことないよ、多幡……君が、がんばってるからさ」

「試合、今度の日曜にあるんだ。よかったら、応援に来てくれよな」

 しれっと、百万年に一回あるかどうかの機会が到来した。このチャンス、逃すものかと、

「当然だよ、大の親友の勇士、応援しないわけがない」

 と、結局は友達の振りをするしかないのだった。まだ、単なる友達として私たちは帰り際の会話を楽しんだのだった。




 日曜日が来た。さすがにひとりで行く勇気はなく、私は穂枝と二人で多幡君の応援に出かけた。会って早々に穂枝は、

「美羽のそんな顔初めて見る。二人の間に何があったというの」

 と冷やかしてきたので、私は飄々と答えた。

「そんなんじゃないって、……まだ」

「えぇぇっっ、まだって何!? まだって!?」

 穂枝は適度に驚くので私は、まだはまだだよと、自己暗示に乗り出すのだったが穂枝は、

「まだが一生続かないといいね、初恋のまだは一生続きやすいんだよ?」

「うぅ」

 と痛いことをしれっと言われた。言葉を何回か咀嚼して気が付いたが、「初恋」か、初恋、初恋だと? 初恋って、そこで私はなんだか恥ずかしくなって赤面し、

「は、は、は初恋とかいうなぁっ」

 と恥じらうのだった。穂枝は、あひゃひゃと笑った。

 私たちは大いににぎわう大会に観客として参加し、多幡君をはじめ、陸上部員の応援をした。多幡君の登場をまだかまだかと待ち、そして多幡君の出番が訪れた。スタートラインに立った多幡君に歓声を送り、私たちは見守った。

 多幡君のスタートダッシュはすごく早くて、とたん一番で走り出したけれど、途中から後続がグングンと追いついてきて、デッドヒートの末、多幡君はゴール寸前で追い抜かれてしまった。多幡君は優勝こそ逃したけれど、そこそこ良い成績を残して終わった。

「すごい大会だったねぇ」

「だね~」

 私と穂枝は多幡君の健闘を祝すべく会場の邪魔にならない場所でヒーローの登場を今か今かと待っていた。ふと、会場が暗くなった気がした。いや、違う。頭がふらつく、これは立ちくらみだ、気をしっかり持てば大丈夫、

「あれ、穂枝、私……」

「うん? どうしたんだい、美羽」

「ちょっと、休……」

「え、美羽!? だいじょ――」

 世界が暗転し、私の意識は失われた。




 私は走っていた。止まりたくなかった。止まれば、追いつかれそうな気がして。

 息を切らし、走る。後ろからは何よりも甲高い鳴き声が迫ってくる。死出の天使はその鎌を掲げ、魂を採集しようとする。

 魂?

 採集?

 私の、……命を、私の心を肉体を天使は刈り取ろうとしている。

 いやだ――

 いやだ、いやだいやだいやだ。

 死にたくない、生きていたい、まだ生きて、したいことがある。せねばならぬことがある。ひとりで死ねるものか、お父さん、お母さん、弟、友達、そして多幡君が。そのすべてを私から天使は奪い去ろうとしている。

 なんで?

 なんで、神さまは、

 なんで、神さまは、助けてくれないの。

「恐れることはない。死は安息だ。安らぎだ。すべての苦しみから解き放たれるところ」

 嘘だ。死の先に安らぎはない、その先にあるものは――無だ。

 実存のいない世界など存在しない。実存が失われれば世界もまた失われる。私のいた世界もまた、失われる、私がいたという事実も、家族も、友達も、多幡君も、すべてが、消え去ってしまう。

 私が何をしたんだ。生きている、ただそれだけだ。

「違うね。君は存在そのものが不全なんだ。本来既に解放されるはずだった実存――君は当の昔に死んでいたはずなんだ。なのに生きている、神の意志に逆らっている。それが君の罪」

「だから……僕ら天使は……、君を本来あるべき姿に……しようといているんだよ……」

 意地悪な天使の声が聞こえた。私は叫んだ。

「ふざけないでっ! 人間には自由がある……好きなように生きる自由が、人生を貫き通す自由があるはずだっ!!」

「自由? はんっ」

 天使は笑った。あざけり嗤った。

「人間に自由などない。あるのはプロシージャの繰り返し。生成、実行、そして消滅……そのプロシージャを管理するのが僕ら天使の役目」

「人間なんてね……ただの命令の手順(プログラム)に過ぎないんだよ……」

 嘘だっ!

 私は生きている。

 私はここにいる。存在している。だから、

「それが間違いだ。説明するのも面倒だね」

「運命なんだよ……。人は、いつか死ぬ……。遅いか早いか、それだけなんだ……」

 天使の鎌がきらめき、そして、

「――いやだぁぁぁああっっ!!」

 天使の腕が私の手をつかむと、

 私の叫びを切り裂き、天使の鎌は振り下ろされた――




 目覚めれば、そこに穂枝がいた。

「あー、びっくりしたぁ。美羽、急にうずくまるんだもん」

 いったい、何があったのだ。確か、私は――私は記憶をたどる。私は、穂枝と陸上部の大会へ応援におもむき、そして多幡君の健闘を見届けて、天使が。そうだ、天使が――

「天使がいる」

「は?」

 穂枝がキョトンとした顔をした。

「天使が私を殺そうとしているんだ」

「ちょっとぉ、美羽。怖い夢でも見たんじゃないの」

「夢?」

 そうか、夢か。あれは夢だったのか。やけにリアルだったが、天使がいるわけもなく、ここが現実世界である以上、あれはリアルな夢だったんだ。

「ちょっと、寝ぼけたみたい。多幡君、まだ来ないのかな」

「あー、そうだ! 美羽、あたし急用を思い出したのさぁ。帰るから、多幡君とよろしく」

 穂枝は、あるわけもない急用を語り、立ち去った。気の利く友人とはいいものだ、そう思い、私は手を振って別れを告げた。

 私はひとりで多幡君に会った。

「楠田、応援ありがと。がんばったけど、優勝はできなかったな。残念だ」

 私は心の底から励ましのエールを送った。

「でも、すごく良かった。多幡君が、頑張ってる姿見れて、すごく良かった。あの彼女もきっと、心の中で、多幡君よく走ったね、よく頑張ったねって思ってるよ」

「そうかな、そうだといいな」

 そして、多幡君は「あぁ、えぇと、その」と言いにくそうにして、けれど真摯なまなざしで私を捉えた。

「楠田……、オレと、その、出来ればでいいんだが、あー、あれだ、付き合って……、付き合ってくれないか」

「え」

 多幡君は私の手を取った。不意に、

 ――アレ?

 あざだ。私の手に、あざがある。そういえば、あの夢の終わりはどうだった。天使の腕が私の手をつかみ、そうだ、天使が私をつかみ、そして――

「ゆ、夢じゃない、夢じゃなかったんだ……」

 私は多幡君の瞳を見ながら、震えた。夢じゃなかった、天使が、天使が、私のことを抹消しようとしている。私は、死ぬのか。そう思うと底知れない不安にさいなまされ、うれしさと死への恐怖がない交ぜになり私は混乱した。

 多幡君の言葉がすごく、うれしくて、本当にこの人とならと、心の底から思えた。けれど、天使の言葉が“君を――抹消することになった”言葉が脳裏を突き刺して、私には、……時間が残されていない。私もまた、多幡君が決して追いつけない場所へ立ち去ろうとしている。多幡君にまた、あんな思いをさせていいのか。

「ごめん、多幡君。私、すごくうれしいんだけど、だけど……」

 だけど、私は……私は、

 もう生きていられないんだ。

 多幡君と別れて、天使によって抹消されてしまうんだ。

 目頭が熱くなった。涙が、うれしいはずなのに、涙がこぼれた。

「もう、君に、走る理由を失ってほしくない。だから、ごめん。私、もう行かないと」

 私は走り去った。そして、意地悪な天使の声が聞こえた。

「なぁんだ、せっかく待ってあげたのにね。でも、君の覚悟、しかとうけたまわった」




 この先は、私の物語ではない。




 多幡は泣きながら走り去る楠田の姿を見送った。振られたのか、そう思うと何とも悲しくなるのだが、友達として会うこともできる、嫌がられても後姿なら見ることもできる。そう思うと、まだマシだという気がしてきて、このつらい現実を受け入れることもできるか、そう思っていた。しかし、

 ふと足元に子供が書いたような落書きが見えた。

“今なら追いつける。今でなければ追いつけない。私は、”

「なんだこの落書き。誰が書いたんだ」

 多幡はしゃがみこんで落書きに手を伸ばしてみた。すると落書きがスラスラと増えていった。

“私は、天使。あなたの……守護天使です”

「誰がこんな落書きを書いて……いや、まてよ。これはオレの字だ――オレが、この落書きを書いているんだ。オレの手が意識せずに走っている、オレが今字を書いているじゃないか」

 多幡の右手は無意識のうちに誰かが操作しているかのごとく、文字を書き連ねている。

「オレ、悲しすぎて狂っちまったのか」

 右手が記す文章は語る。

“時間がありません、この言葉を信じて。楠田さんは、死ぬ定めでした。しかし死をはねつけ、奇跡的に生の運命を手にしました。ですが今度はガベージコレクションにより抹消されようとしています。死ではありません、存在そのものの喪失です。でも、今なら間に合う。あなたが、あなたが楠田さんを見つけさえすれば、彼女を助けることができます”

 天使は告げた。

“彼女を、探し出して――”

「やっぱオレ、狂っちまった。そうだよな、走ったってしかたがないんだ。オレなんか走っても、意味がないんだ。でも……、けれど、だけど――今走って、今捉まえなければ、意味がない。一生、後悔する」

 多幡は走った。理由はわからなかった。けれど、もう後悔はしたくなかった。

 走り去る電車に、今度こそ追いつくんだと、多幡は走った。

 楠田はどこにいるのか。

 中学か、家か、図書館か、違う――

 そんなところじゃない。行く宛は、あった。

 ――あそこだ。

 あそこにいる、多幡にはわかった。だから走った、しゃにむに走った、息を切らして走った。そして、今度こそ追いつける気がした。




 そこに、楠田はいた。

「やっぱりここにいたんだな」

「多幡君……なんで、ここにいるってわかったの」

「お前の進学したかった高校だ。生きていれば、オレたちが一緒に過ごすはずだった場所だ。なら、ここしかない、そう思った――それだけだ」

「でも私、行かないと。天使たちのいうように、私は」

「違うっ!」

 多幡は叫んだ。

「運命だから生きる、定めだから死ぬ、そんなの馬鹿げてるっ! 人は、宿命という牢獄から出られるはずだ。出られないのならオレが連れ出して見せる。オレは、今度こそ、」「多幡君……」

「オレは、今度こそ、追いつくことができた。走りつけた。やっと、ゴールにたどり着けたんだ」

「うれしい……、ありがとう。私、いつ消えるかもわからないけれど、あなたと会うことができてよかった。私は、ここにいる。あなたと共に、そこにいた。それだけでも、」

 『私』は――

「幸せを感じることができるんだ」

 『私』の目から、涙がこぼれ出た。不意に、意地悪な天使の声が聞こえた。

「残念ながら、お別れ……じゃないんだな」

 天使ははきはきと語った。

「焼かせるねぇ、この二人は。おめでとう、君は実存(インスタンス)としての参照を得た。要するに、君を君にした第三者が現れたってこと、君は一人称の主体ではなくなったのさ。これでもう君はメモリリークではない、消せなくなったのさ。運がよかったね。それじゃ、そういうことで、多幡君とお幸せに」

 天使は立ち去った。そして天使は立ち去り際につぶやいた。

「一度失われた参照をピッタリとリンクさせるなんて、神さま(スーパーバイザー)のお遊びとしか思えないよ。やれやれ、とんだキューピッドだ」




 こうして私と多幡君は出会い、あなたとそこにいた私は、今もこうして、

 ここにいるんだ――




-了-